短いですが。

雨降りストレンジャー




「さいあく」

 琴子はぽつぽつと雨の降り出した空を見上げて呟いた。小さく広げた両手に水滴が落ちて、小さな掌を濡らしてゆく。次第に強くなってきた雨足に、琴子が気付いた時には周りには誰も居なかった。すぐ近くの喫茶店に目を遣れば、沢山の客が美味しそうにコーヒーを飲んでいる。琴子は、幸せそうな客たちと、不運なことに一銭も持っていない自分とを比べ、惨めになったのですぐにそこから目を反らした。一昨日髪の毛を切ったせいで、久しぶりに覗いたうなじに大きな雨粒が当たり、琴子は小さく身震いした。ついてない。昨日あんなことがあったばかりなのに、と琴子が思うと、雨が更に強く冷たくなったような気が、した。

「帰らないのですか?」

 思考を遮る突然の問い掛けに、琴子はびくんと痙攣しながら振り返ったが、視界には何も映らなかった。

「誰?」

 虚空を見つめながら琴子が訊ねると、今度は前方から声がした。

「誰、と言われましても」

 今度は見逃さない、とでも言うように琴子が物凄い速さで振り向けば、琴子の視界には、得体の知れないものが映った。

「あなた、何? どうして喋れるの?」

 琴子が声を震わせながら小さく後ずさりしながら訊ねると、その得体の知れないもの、黒いダブルのスーツに蝶ネクタイを締めた二足歩行のダックスフントが嬉しそうに笑った。

「そうです。そんな反応を待っていたんです」

 得体の知れないダックスフントが一歩一歩琴子に近付いてくる。琴子は救いを求めるように目を反らしたばかりの喫茶店を見たが、誰もが談笑に夢中で琴子とダックスフントには気付かない。ダックスフントが近寄ると、琴子は一歩後ろへ下がる。そんな一進一退の一人と一匹? の攻防戦は、琴子の背中が壁に当たったことで幕を閉じる。

「いや、近寄らないで」

 雨は、更に強くなっていた。やっぱり、ついてない。琴子はもう一度思って目の前のダックスフントを睨み付ける。

「貴女の、欲しいものは何ですか?」

 しかし、得体の知れないダックスフントの口から零れた言葉は、拍子抜けするほど普通の質問だった。ダックスフントの質問に、琴子は遠くを見つめて小さく呟く。

「あのひとのこころがほしい」

 切なげな琴子の瞳に、ダックスフントは全てを悟ったかのように小さく首を横に振る。そして心底申し訳なさそうに深々と頭を下げた。

「申し訳ございません。既に誰かの手に渡ってしまったものは、差し上げられないのです」

 悲しそうに自分を見るダックスフントに、琴子はいいの、と呟き、微かに笑い返した。

「ありがとう。ごめんね、難しいお願いしちゃって」
「いえ、こちらこそ期待をさせてしまって、すみません」

 一人と一匹は同時に頭を下げ、上げた瞬間にかち合った視線に気まずそうに苦笑いをした。

「おっと、雨が止んでしまう。それではまたいつか、雨の降る日に」

 ダックスフントはもう一度丁寧に頭を下げると、琴子に背を向け、走り出す。

「あ、ねぇ。待って」
「どうかなさいましたか?」

 大きな目で自分を見つめるダックスフントに、琴子はゆっくりと近寄ってハンカチを身体に巻いてやった。

「あんまり、意味ないかもしれないけど」
「いいえ、ありがとうございます」
「欲しいもの考えとく。今度会うときまでに」
「えぇ。今度はきっと叶えて差し上げます」

 一人と一匹は同時に背を向け、走り出した。気付かないうちにブレザーから覗いたセーターの袖が、ぐしょぐしょに濡れ、茶色のローファーは水浸しになっていた。ついてない、こともないかも。琴子は、さっぱりとしたうなじをがしがしとさすり、得体の知れないダックスフントを思い、小さく笑った。走っているうちに、雨は止んでいた。雨上がりの空に、虹がかかっていた。